愛の牢獄「聖体」


安物の昼メロみたいな題名ですが、聖ホセマリアは聖体を「愛の牢獄」と呼んでいました。神でありながら、その力を封印して人になったイエス・キリストが、今度はパンの形で私たちと共にこの世に残られました。文字通り身動きが出来ず、閉じ込められて、人の手に身を委ねています。無視され、侮辱されることを承知の上で聖櫃の中に残りました。私たちへの愛のためにそうされたのです。だから「愛の牢獄」です。

この世に残らなくても、天国からでも私たちを助けることは可能でした。しかし、私たちと心を交わして親しく付き合うことは出来なかったでしょう。それでは寂しすぎるので、一緒にいたいと考えられたのです。心で祈るだけでなく、実際に足を運んで会いに行き、話して、言葉を聞き、拝領することで一つに交わることが出来るのです。あの牢獄の中で、それをじっと待っています。友人が入院したら、お見舞いに行くでしょう。家族が牢に入れられたら面会に行くでしょう。毎日、一回はイエス・キリストときちんと向き合うようにしましょう。

こんなイエス様が、一日に一回だけ牢獄から出ることがあります。それは、ミサ聖祭です。司祭の言葉に従って祭壇上に降りてこられ、聖体の中に宿ります。それは、牢獄に閉じ込められるためではなく、私たちと出会い、交わるためです。神殿に祀られるように、私たちの心を神殿として住まうためです。イエスがミサの中で「あなたを待っている」と言ってもいいと思います。だから、あなたがミサに参加しないとミサは完成しないのです。

私を待ってくれている人がいる、それは大きな慰めになります。その人が神の愛そのものであるなら一層です。それに応えたいという思いやりの心がそのまま信仰になります。その人は、自己愛を克服して神の愛を生きるようになるでしょう。逆に断る人は、エゴイズムという見えない牢獄に閉じ込められて、自由だと思いながら、欲望に囚われの身になります。慰めようと神が訪れても、断ってしまうので孤独に陥るでしょう。それは「自己愛の牢獄」です。■
*2014/02/15 2月黙想会「ミサ聖祭」説教より

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この記事へのコメント

とりめし
2014年03月20日 22:21
愛する...この感情が今一つ理解できません。イエスさまが私たちを愛して下さっているのはなんとなくわかります。親に対しての愛、子どもへの愛、伴侶に対する愛それぞれ違っても自分のどんな気持ちが相手を愛してることになるのか、理解できます。でも、聖書は読んでも話は聞いても会ったことのないイエスさまへどのような感情がわき起こった時、愛と、愛してると言えるのでしょうか?
これは子どもの方が上手ですね。イエスさまとお話したり遊んだりできるのですから...祈る事、苦しみを捧げる事、お恵みに感謝する事よりももっとストレートなことのような気がするのですが。
toma-san
2014年03月21日 16:05
神への「愛」はcaritas(カリタス)の訳で、「大切に想う」という意味ですから、意志的な働きです。一方、愛情はamore(アモーレ)で、意志に関係なく溢れてくる気持ちです。神を愛するとは、十字架のイエス様を見て、自分のために苦しんでくださったことを受け止め、それに応えるカリタスです。しかし、野の百合を見て神の愛を感じたり、空の青さに神の愛を感じて涙することもありますね。

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