イエスと結ばれる「くびき」

教会に真面目に通う人が癌になって、余命が数か月と宣告されました。その人は神に文句を言いました。「永年、一生懸命に祈ってきた答えがこれですか?私は、耐えられません。あなたは恵みを下さる代わりに苦しみをくださるのですか?」そして、希望を失い、祈る気力も無くなりました。そして、相談に来られました。「神は私に背負いきれない重荷を与えました。私は、もう何も出来ません。何もしたくありません。どうすればいいですか?」

聖書には「くびき」という聞きなれない言葉が出てきます。牛で畑を耕していたころ、二頭の牛を並べて使用していました。この牛が自分勝手にバラバラな方向に鋤を引っ張らないように、木製の首枷で二頭の牛を一つにつなげていました。その道具を「くびき」と呼んでいました。「重荷を負って苦労している人は、私のもとに来なさい。私のくびきを受け入れ、私の弟子になりなさい。わたしの『くびき』は負いやすく、私の荷は軽いからである」(マタイ11.28-30)。また、「私を離れては、あなたたちは何一つできない」「私の内に留まっていなければ、実を結ぶことはできない」(ヨハネ15.4,5)と最後の晩餐でイエスは話されました。

もうお分かりですね。イエスは私たちと一緒に重荷を負うために来られました。重荷を取り去るのではなく、一緒に担うのです。ふたりは「くびき」で繋がれていますから、一方が止まると、他方も動けません。また、別々の方向へ引っ張ると力が相殺されて、これも動けません。「こんな重荷は負えない」と諦めると、イエスも動けません。そもそも、イエスと共に生きなければ実を結べないのです。イエスは十字架という重荷を背負って歩きました。キレネ人のシモンという人が無理やりイエスの十字架を押し付けられて、手伝いました。

人生の苦しみは、このようにイエスの十字架を手伝うことであり、同時に、私たちの苦しみをイエスが十字架と一緒に運んでくださっているのです。諦めることは神を手放すことになります。自分には出来ないけれど、イエスが一緒に背負ってくださるから、苦しみや困難と向き合って、取りあえず一歩を踏み出します。するとイエスの力も働き始め、重い荷が軽くなっていきます。こうして、初めて神の力、イエスの愛を親身になって感じることができます。信仰はイエスとつながって一つになることです。ところで、イエスは十字架の上におられます。イエスを信じて自分の十字架を負うなら、その先に復活の門が開かれるでしょう。そして、重荷はイエスと結ばれる機会になり、すでに喜びが始まります。■
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