神様に愛されている!

「本当ですか?私はまったく神の愛を感じません」という人も多いかもしれません。それは理解できます。幼い子が、親から愛されていると実感できないのに似ています。成長して初めて「親から愛されていたな」と実感できるのです。神の愛を感じるまで、今少し信仰が成長することが必要かもしれません。しかし、たとえ愛を感じなくても神の業を知り、それについて考えることで、愛されていると分るでしょう。今日、「主の洗礼」を祝います。どうして主イエスは洗礼を受けたのでしょうか?洗礼者ヨハネは「私こそ洗礼を受けるべきです。立場が逆です」と反対しています。その通りです。ところがイエスは「正しいことは行う」と言い「我々にふさわしい」と応じています。なぜでしょうか?すぐに分かりました。天が開け聖霊が鳩の形で下り、父である神の声が聞こえました。「これは私の愛する子、心にかなう者」。これがヒントになるでしょう。

 イエスは個人的には洗礼を必要とされませんが、私たち人類を代表して最初に洗礼を受けられたのです。父である神は、イエスを愛すると伝えたかったのではありません。洗礼を受けてイエスと結ばれた者は「私の愛する子になる」と伝えたのです。イエスは洗礼を受けることで、私たちの洗礼を先取りされました。そして洗礼を制定されたのです。ヨルダン川の水で洗礼を受けて、私たちの洗礼の水を前もって祝福されたのです。神様は主の洗礼に先立って唯一の御子を私たちに与え、神が人となって私たちの内に住まわれました。弱く惨めな私たちと同じものになってくださいました。全知全能の方が言葉も話せない無力な赤ちゃんになったのです。「どうしてこれほどのことが私にめぐまれたのでしょうか?」神が私たちを愛されたからです。

 私たちが立派だったから愛されたのではありません。その逆です。罪人(つみびと)だったからです。親鸞上人が「悪人正機説」を唱えましたが、それとまったく同じことです。罪から解放して救うために来られました。さらに、十字架で死ぬまで自分自身を捧げられました。ちょうどアブラハムが長子イサクを生贄として神に捧げようとしたように、父なる神は独り子イエスを犠牲として捧げたのです。そこまで私たちは神から愛されているのです。神の愛は止まりません。私たちが回心しなくても、無関心でも、裏切っても、忘れても、待ち続けています。けっして愛をあきらめません。私たちを見捨てません。この愛に気づかないのは、私たちが自分の欲で心が曇っているからではないでしょうか?

 聖アウグスティヌスは神の恵みを受けるために「心の口を大きく広げなさい」と教えています。コップに例えてみましょう。うつ伏せに置けば、いくら水を注いでも流れ去って水は溜まりません。上向けにして口を大きく開ければ水が一杯になって溢れます。この世の成功、富、賞賛ばかりを目指すとき、心は下を向いています。もっと永遠のこと、霊的なこと、神のことに思いを向ければ心は上を向きます。心を開くとは、信仰と希望を持って神の約束を思い出し、神の望みを果たすために恵みを願うことです。そうすれば神の助けを実感して、神の愛に気付くでしょう。フランシスコ教皇の寄り添う態度に神の愛を感じた人も多いでしょう。あなたも神様から愛されていますよ!■2020/01/12 主の洗礼ミサ説教(小寺神父)

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