「待つ」とは…


初めて桜の里教会に来ました。隅々まで心が行き届いた綺麗な教会ですね。約一ヶ月前にミサを頼まれて、今日を楽しみに待っていました。「待つ」というのは、ただ時間が過ぎていくことを指すのではありません。その日に向けて用意して、様々な必要なことを準備します。つまり、目的に向けて歩んでいくことです。

私もこの教会に招かれて、今日のミサを「待って」いました。地図を見て道を調べ、人に目印を聞いて…それでもレンガ造りの「桜の里」という新興住宅地入り口の看板を教会入り口と勘違いして、道に迷ってしまいました。バスの運転手に尋ねて、やっと探し当てました。招かれた場合、知っている人に導いてもらうことが一番確実で、近道ですね。これにはオチがあります。ガラス戸扉の入り口まで来たのですが、押しても開きません。押してもダメなら引いてみな!でも、引いてもダメです。中は明かりが点いて人の気配がします。ノックして人に来てもらいました。身振り手振りで「開けてください!」とお願いしました。

その方は不思議そうな顔で、何気なく扉を横にスライドさせて開けてくれました。知らないとは恐いですね。簡単なことでも分からないのです。聞いたら、何でもないことでした。救いを待っている私たちも同じかも知れません。我を張らずに、よく知っている人に素直に尋ねて従えばいいのです。

さて、今晩から待降節が始まります。新しい典礼暦年(A年)のスタートです。一足早く新年を迎えたようなものですね。待降節は主イエス・キリストの誕生を準備して待つ季節です。どうやって待てばいいのでしょうか?先ほどの話と同じです。受身で何もせずにぼんやり待つのではなく、自分から行い準備しながら待つことにしましょう。神である方が自らへりくだり人になったのですから、私たちも謙遜になりましょう。自分の権利や自分の時間、自分の好みなど、執着しないで、夫は妻、妻は夫のために、親は子のために、子は親のために、家族や友人、同僚のために自分を差し出しましょう。■(つづく)
*2010/11/27/待降節第一主日(A年)ミサ説教より

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