主に交われば・・・

「朱に交われば赤くなる」という諺があります。親しく付き合って時間が経つと、友達や夫婦、親子など、互いが似てくるという意味です。それでは、キリスト信者はイエス・キリストと長く付き合うと、どうなるのでしょうか?ただ一緒にいるだけでは似た者にはなりません。「交わる」ことが欠かせません。イエスと交われば、どうなるか?と言い換えると、さらに正確な言い方になります。

信仰生活とは、「何か」をすること自体ではなく、イエスと「交わる」ことです。何をするにしても、イエスと「交わる」ように「する」のです。だから「何か」ではなく「どのように」が大切になります。あるいは、何をするにも「心構え」が問われているとも言えます。パウロが、一言で答えています。「愛がなければ、何をしても虚しい」。また「飲むにつけ、食べるにつけ、神の栄光のためにしなさい」(1コリント10.31)と教えています。

私たちがイエスを求める前に、イエス自身が私たちと「交わる」ことを望まれました。そして、人間らしく交われるように、人となって人間社会に入り、共に生活し、さらに私たちと心も体も一つになるように聖体の内に残りました。ミサで聖体拝領するのは、まさしくイエスとの「交わり」そのものです。この交わりが深まるために、私たちの側からの協力が欠かせません。「交わり」は一方通行ではなく交流、つまり双方向の愛の関係だからです。

たとえば、どんな状況でも神に感謝することから始め、どんな結果に終わっても神に感謝することで終わります。なぜなら、イエスが私たちのために、十字架を通して既に愛を注いでくださったから。祈り時も、犠牲を捧げる時も、施しをする時も、自分を誇ることなく「すべきことをしたし過ぎません」という心を持って、誰に対しても相手を尊重して、優しい眼差しで寄り添う心を持つことです。イエス自身が、このような生き方をされたからです。このようにイエスと「交わる」と、その人はどうなるでしょうか?「主に交われば、聖になる」のです。聖人たちは、この地上でイエスと「交わった」人です。そして、天国でその交わりの完成を今も生きている人なのです。■
* 2017/01/28 年の黙想コース説教「聖体」の説教より

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